公開日記-001(入院生活編)

このページは、トントンさんの日記です。

2003/3/11(手術前日。入院当日)

平日昼間に'笑っていいとも'を見ながらインスタントカレーをほおばる。
カレーは矯正のゴムに染色するのでなぜか矯正を始めてから避けていたが、今日はそんな事はどうでもいい。
いつも、会社に出勤するときはギリギリで駅までダッシュする私も今日ばかりはかなり余裕を持って駅へ。
傍から見るとキャスター付きキャリーケースと小さな鞄を抱えた私が今から入院するとはとても見えまい。
そうそう問うの本人でさえ、実感がわかない。
このまま海外旅行にでも行けるものならいいが…。

自己血貯血のために通った病院までの道のりも随分見慣れたものになってきた。
入院予約時刻の14:00に到着。(結局ちょうどの到着になっている・・・)
受付で入院手続き(と言っても、紙を渡すだけの簡単なもの)を済ませ、病棟へ。
受付の人の手配ミスにより予約していた個室に入れず、二人部屋へ。
まだ、隣の人は入室しておらず窓際のベッドを使うことになった。
よくTVやお見舞いで見るように私の名前が書かれたプレートが入り口に貼られた。
しばらくしてとても優しそうな看護婦さんが来て、血圧を測って体温計を置いていった。
持ってきた荷物を整理し、パジャマに着替え、検温。
興奮しているのか37.4℃。
確か、少しでも熱があったら手術ができないという話を聞いたことがある。
ヤバイ!!!でも風邪をひいた記憶はない。
もともと平熱が高い方なのだがこれはちょっとまずいかな…。
今更後戻りはできないぞ。
あまりにも暇なので同じ階を散策してみた。
おそらく今の段階では私がこの入院患者の中で最も健康であろうと感じた。
ここの病院は本当に小さく決して綺麗という訳ではないが、どこの病院も似たような感じだな。
談話室のようなところとお風呂場、トイレ等々を発見してすぐに探検は終了してしまった…。
それにしても暇。。
この期に読もうと思って持ってきたハードカバーの本を読み始めたが、どうも目が字を追っているだけ。
ま、読書はこれから嫌でもすることになるだろうと思い、この日記をつけることにした。
さっきの看護婦さんによると今日は抗生剤のテストと採血、あと点滴用の針を刺すらしい…。
今日は男性入浴日だが、私だけあとで特別に入ってもよいとのこと。
こんなことならば、出掛けにもう一度シャワーしてくればよかったかな。。
熱のことは今の所大丈夫そうだ。
'水枕いる??'と看護婦さんに聞かれたが、夕方の検温まで様子をみることにした。
どうか熱が少しでも下がりますように。

そうそう、さっきナースステーションを覗いたときに3/12(木)名前:○○○○(オペ内容)9:00と書かれていた。
ひょえ〜〜!!
明日の朝9:00から手術なんだ〜〜!!
聞いていなかった…。
明日の朝にはもうまな板の上の鯉常態になっているのだ。
初めてこのとき手術の実感が沸いた気がした。
とは言っても、その日のうちにいつやろうと時間の差にたいした違いはない。
もうここまできたらやるっきゃない。
いや、やってもらうっきゃない!!
夕方、シャワーを浴びて病院の1階にある口腔外科へ。
ちょうど母親が病院に着き、一緒に先生から手術の説明をもう一度受ける。(私は以前に聞いていた)
矯正歯科で見せてもらっていた私の歯の模型が届いていた。
やはり上下(5mm、10mmの移動量)との事。
しかしその数字はあくまでもということらしい。
気になっていた鼻の変形のことを聞いたが、多少は仕方がない…との事。
でも、これは先生を信じて運を天に任せよう。
顎間固定はしない。鼻チューブは約1週間。
当日(翌日)はNCU(観察室)で過ごすとの事。
かみ合わせの型を取り、正面、左右の写真を取り、診察終了。
部屋で福岡の祖母が愛情込めて私のために作ってくれた'おはぎ'を3つたいらげた。
明日から何も食べられなくなると思うと、無我夢中でほうばった。
そのうち抗生剤のテスト、採血、点滴用の針を入れたり、採尿をしたりするうちに18:00に。
いつのまにか夕食が運ばれてきた。
「え?これだけ?」と思わず言ってしまうほど少ない質素な食事だった。
あ、そうだ、ここは病院だっけ…。

母といろんな話をした。
でもさっきの'おはぎ'が胃にもたれていてご飯は残してしまった。
少ないと思った自分がちょっと恥ずかしかったりして…。
面会までの一時間、母は母らしい態度で接してくれた。
いつもの母のように。
1階まで見送り、強風の中、1時間以上かけてこれからしばらくおせわになるおばの家まで帰っていった。
「お母さん、怒ってる?」と聞いてみた。
「怒るも怒らないも、あなたが決めたことだから今更何も言わないわ」
五体満足で生まれた私が自分勝手に?決めた今回の手術。
心配してくれているはずだが、決して感情的にならず(たまになる???)見守ってくれて応援してくれる。
私の両親は自営業をしていてご多分にも今は厳しい状況だ。
特に期末であるこの3月はなおさらだ。
確定申告の事務手続きを毎日夜遅くまでやり、たいへんだったこの時期に私のために時間を割き、はるばる福岡から看病に来てくれた。
ほんとうにありがとう。

明日、いよいよ手術です。
運を天に任せて頑張ります。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、お兄ちゃん、頑張ってきます。
(なんだか、死ぬ前の人のような日記になってる…でも。
なんだか、今日はさすがにそんな気分が少しもないとは言い切れぬ夜だった。)

2003/3/12(手術当日)

昨夜は開いていたはずの隣のベッドに急患の患者が搬送されてきて、それに伴ってバタバタ…。
隣に翌朝手術の患者がいることもつゆ知らず本当によく騒いでいただいた。
お陰で眠れそうな目も耳もパッチリ。
そりゃ、カーテン一枚向こうで行われている行為が気になって仕方ないだろう。
眠剤を使用しないつもりだったが。
結局22:30頃に服用した。
その後、隣の人は私よりも早く幸せそうにイビキをかいて寝てしまった…。
私もなんとか寝たが隣の人がTVをガチャガチャいたずらに操作する音で起こされ、検温やら血圧やらで7時前にはお目覚めモード。
今朝の検温でもやはり37.1℃
(私の日課である基礎体温に限っては37.35℃昨日よりは下がったが、少し微熱がある)
昨日から刺しっ放しの点滴用の針が随分と痛む。
しかし、こんな事、これから待ち受ける事に比すればどんなに小さいことだろう…我慢。我慢。
あとは10分前(9:00)にトイレを済ませ、病院の病衣に着替えて待機するのみ。
今朝は朝食はもちろんのこと水分も摂取できないため、皆が朝食タイムの時は暇で仕方がない。
母はあと1時間後にやって来てくれる。
そうこうするうちに時間はあっという間に過ぎた。
8:30になって母が来てくれた。
びっくりした。
間に合わないと思っていた。
そして点滴が始まった。
術中何があってもいいようにという点滴らしい。
今は2人部屋なのだが今日は術後、ナースステーションの横の観察室に移るらしい。
そして時間通りに看護婦さんが迎えにきて歩いて母と3人で2階の手術室に行った。
手術室と書かれた銀色で冷たい感じのするドアの前で母と硬く握手をして手を振って分かれた。
母は家族控え室というイスが並んでいるだけの廊下で待たされるらしい。
このときの自分は後から考えてもびっくりするほど動揺がなく、さっぱりしたものだった。
手術室に入る前のところはひんやりとしていて、5個あるという手術室の前には次から次にこれから手術をする人たちが流れ作業化のように入ってきた。
私はずっと待たされていたが、ようやくお声がかかり、さらに中に入った。
そしてスリッパにもカバーをかけ、帽子をかぶり看護婦さんと手術室に向かった。
そこにはTVでよく見るあのライトがあり、幅の狭い小さなベッドというか台のようなものが高い位置にあった。
自分でスリッパを脱いでその台の上に登る。
3人の看護婦さんが慣れっこのようにいろんな器具を私の体につけてきた。
男の人一人が(知らない人)が挨拶をしつつ手術室に入ってきた。
誰だこれは???(今でも不明)
そしてだんだんと私にも恐怖というものが沸いてきて、さすがに体が震えた。
「恐いよ〜」と看護婦さんに訴えてみたら、「大丈夫ですよ。」と軽く2回ほど諭された。
そしてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーー。

全く記憶はない。
「○○さん、終わりましたよー」と何回も言われ、オムツ(手術用に買わされていた、ふんどしでつけるもの)を付けられ、管を入れられているような気持ち悪い感覚が意識が朦朧としながらもあった。(意識が朦朧としていたので、あいまいな記憶ではあるが)
それにしても言いようもない感じだった。
ツライというか変な感じ。
口周り、顔、頭が。
顔面に石膏をかぶったような(かぶったことないけど)感じといったらいいだろうか。
母に、「手術室から出てきたら写真を撮ってね」(HPに投稿しようとおもって)と前もって言っていたので、手術室から出てきた私の写真を撮る母の声がした。
普通は、家族があまりの変容振りに泣いたり、驚いたりするものなのかもしれない。
(中にはそういうお母さん、特に女性はいるみたい)
でも、しきりにデジカメと苦戦する母に看護婦さんは笑っていたようだ。
意識が朦朧としながらそんなことが思い出される。

観察室に戻ってからは本当に人生23年のうちで一番最悪だった。
体のだるさ。顎の痛み。息苦しさ。つらさといったら枚挙に暇がない。
こんなにいっぺんにつらいことが重なることはそう滅多にはないだろう。
まず、「手術は成功ですよ」と枕もとで言っていた先生の言葉を聞いてちょっとほっとした。
が、そんなことより目下の苦痛が耐えられなく辛かった。
母のそばで何度もわがままを言ったが、母はやさしく聞いてくれた。
もちろんしゃべれない。
母に渡しておいた紙に意思を伝えて訴えた。
字を書くということ、ペンを持つということすら一苦労だった。
先生が母に「手術は成功です。出血もなくかみ合わせも綺麗にあっているでしょう。」と私の顔を覗き込みながら言っていた。
その夜、母は帰っていた。
「ホントは傍にいてあげたい」と言ってくれたが、泊まることのできない部屋で、他にも要観察の重症の人がいたので、仕方ない。
今日ばかりは、甘えて、私の体の一部になってほしいと心底思っていた。

まず、喉が乾く。痛い。
口が腫れすぎていて唾液がゴックンできない。
そして本当に本当に喉が渇いた。
「少し水をくれ〜」といったものの、しばらくは飲んではいけないらしく、辛抱した。
そして、やっとのことで水飲みで少し水を飲ませてもらった。
でも吐いてしまう。
もちろん、何も食べていないので何も出ては来ないが、気持ち悪くて吐いてしまう。
吐くのにも大変。
トイレにも行きたくて仕方がない。
でも、尿道に予め管がさしてあるからトイレといっても尿意があるとそのまま管で出てしまう仕組みになっている。(手術後はみんなそうなっている)
でも、私はそれがなんだか気持ち悪く、苦痛だった。
行きたいのに行けない。。。
「トイレ行きたい」と看護婦さんに訴えたが、「管が入ってるからしてもいいんだよ」って諭される。
そうは言っても、尿意が気持ち悪い。
そしてずっと口呼吸であるのだ。
鼻には管が入っていて、鼻も詰まってて息なんてできるもんじゃない。
そして痰がからまる。
'えっへん'とかして取り除けるものならいいが、そんなことが今の私の状況下でできるはずもない。
そばにある吸引機で痰を取ってもらうのだが、口が開かないから、奥の方に引っかかってからまる痰まではなかなか取れない。(これが苦痛)
息苦しさに拍車がかかる。
結局水分もだめ。(吐いてしまって大変なことになるから)
せめてでもということでガーゼを湿らせてもらって口にあてることにした。
もちろんすぐに落ちるし、乾いてしまう。
でも、それでもそれがありがたかった。
たぶん、終戦下でもないかぎり、こんな経験はしないであろう。
たった数滴の水が欲しかった。。。
でも湿らせてくれる人が傍におらず、看護婦さんもちょくちょく来るわけではない。
喉が渇いて、息苦しくて、口呼吸ばっかりで、どこからとなく痛い、痰が絡まる。。。
本当に辛かった。
この部屋は男女が一緒だった。
喚いたり、うめいたりする人もいて、寝れるものではない。
それよりなにより本当に辛いから寝れないというのが本当のところ。
何が辛いかわからないほど辛い。
ほんの数時間まで正常に機能して、普通に息ができ、唾液を飲み込め、動いていた機能がいっきに機能しなくなるとまではいかずとも不自由になるのだ。
今まで経験したこともない。
外科的な手術であるとはいえ、目に見えない。
手が届かない。
辛いはずだ。

夜中になってどうしても尿の管も気になり、イライラしてしまい、(本当はそれだけがつらいのではないが、少しでも一つでもつらいものを減らそうと私は必死だった)
尿管を抜いてもらうことにした。
担当医は22時には抜いてもいいといっていたのに、看護婦は抜くことを渋った。
そのどうみても私より若い看護婦はやっとの訴えに管を抜いてくれた。
「自分で立ってトイレに行けるの??」と怪訝そうに私に言った。
「うん!!」と私は言い張った。
抜くときは結構痛かった。一瞬だけど。
看護婦に付き添われ、フラフラしながらトイレに行ったが、結局トイレで気分が悪くなり、吐いてしまい、帰りは車椅子でベッドまで連行された。
そのとき初めてトイレで自分の顔を見たが、本当にすごかった…。
ベッドまで戻ると、「ほらみたことか」と言わんばかりに看護婦は冷たかった。
相変わらず冷淡で機械的な作業で看護され、不安でつらい夜を迎えた。
その夜は本当に時間が経つのが遅く、足をバタバタさせて、もがきながら耐えた。
(下半身には不自由がないから、上半身の何もできない辛さを必死に逃がそうともがいて、足をバタバタしていた)
途中、あまりの辛さに、痛み止め(今考えると痛みというほどではなく、とにかく息苦しさといろんな辛さが入り混じったものだった)、睡眠薬の点滴をしてもらった。
下半身は、尿管を抜いたお陰ですっきりした。
もがく同室の人の声に自分を重ねながら朝を待った。
点滴の効果は全くなく、眠れぬまま、だんだん夜が明け、空が白んできた。

2003/3/13(手術後1日目)

朝になり、母と先生が来てくれるのが待ち遠しかった。
そして先生が来てくれるまでに私は考えた。
この鼻からのチューブを抜いたら少しは楽になるかもしれない。
鼻チューブはいろんなHPで今まで見てきて、本当に誰もが嫌がる。
入れるときの苦しみを私はあまり味わっていないが(意識があまりないときに入れられているから)これから1週間、予期できる苦しみと戦うのは真っ平だ。
もちろん、意味があっての鼻チューブだ。
口が開かない分、鼻から栄養をとらねばならない。
しかし、HPで見ていた限りでは同じ手術でも点滴だけで過ごした方もいらっしゃったし、お願いしてチューブを抜いてもらっている人もいた。
私は、一か八かの作戦に出た。
私の担当の若い先生には前から鼻チューブはしたくないと行っていたが、絶対にダメと言われていたし、これからどう頑張ってお願いしてももう入れてしまったものを今更抜くことはなかなかしないであろう。
しかも、昨日の今日の話だから。
でも、何が何でもそのときの私はそれをとってもらう作戦に頭を費やし、ベッド脇にあった、紙に必死に書いた。
「口呼吸でつらい。2,3日点滴だけでも死なないので鼻チューブを外してほしい。お願いします」と。
そして、やってきたのはもう一人の先生だった。
この先生の方が私の担当の先生よりも年配で熟練の技術者でもあった。
見た目はヤクザっぽく恐いのだが、すごく気優しく、説明もよくしてくれて、医者っぽい。
何かあったらすぐに対応してくれる先生だ。
そして、その先生が来たとたんにその紙を渡し、先生の手を握り締め泣きながらに訴えた。
もちろん言葉にならない言葉で。
そうすると、見かねた先生は管を抜こうと言ってくれた。
本当に嬉しかった。
抜くときは、一瞬おえ〜〜としたが、それよりも何より、こんな太い、長い管がよくもこんなに鼻から体に入っていたんなとびっくりした。
血まみれの管をみるとぞっとした。
先生もこの管のしんどさには少し同情してくれた。
あんなにみんながHPで嫌がっていたチューブ、そして、この手術を受けた方が頑張ってのりきった鼻チューブを早々に私はリタイヤさせてもらった。
運良く先生に外してもらえたことを今でも感謝している。

もとの病室に戻ると3人になっていた。
もともと2人部屋なのだが、強引に3つのベットが入れてあった。
もう一人は、骨と皮のおばあさんだった。
その日は顔の腫れは思ったほど大したことはないと感じた。
もっと顔が腫れるだろうと思っていたから。
先生も母も「あまり腫れないね」と言っていた。
鼻から栄養を取らない代わりに始終点滴となる。
1日数回のタイミングで点滴が行われる。
全く食欲もないし、食べたいとも思わない。
体もだるく、ずっと寝ていた。
でも、寝ていても辛い。
この日のことはあんまり覚えていない。
その夜もまた、息苦しく、痰も絡まり、昨日同様寝れなかった。
眠剤を投入してもらったが、それでもほとんど寝れなかった。

2003/3/14(手術後2日目)

口元の感覚がない。
これが麻痺というものだろう。
そして唇がパンパンに腫れているし、口の周り、顔の筋肉が言うことを聞かない。
だからしばらくするとよだれ(唾液)がたれてくる。
それを飲み込んだりすすったりすることすら今の私にはできない。
ひたすら吸引機で吸い取る。
喉の奥にずっと絡まり続ける痰にイライラするが喉の奥にまで吸引機のチューブを入れると'おえ〜〜'となるし、なかなか入れずらい。
頭はぼーとするし目まで腫れてきて、これが本当に私であろうかと思うくらい、この日は本当に顔が腫れた。
そして、目から涙がぽろぽろと止まらなかった。
泣いているのではなく、(泣きたいほどだが)目と鼻と口はつながっていて、今、いずれもが腫れているため、連動して涙腺が圧迫されているからだろうとのこと。
(ベッドの傍まで日に数回様子を見に来てくれる先生がいっていた)
痰があまりにもからまってしんどいので、先生に訴えてみたところ(訴え上手になっていた…笑)痰をきる(痰がでにくいようにする)点滴を処方してくれた。
それからあまり痰に悩まされることはなくなった。
しかし、まだ体はだるい。
何もする気にもなれない。
トイレに行くのがやっとだった。
外来では傷の消毒をしてもらうのだが、そこに辿り着くまでに会う人々は私の顔を見てはあわれんだように見た。
それもそうだろう。
見た目の若い女の子の顔がこんなにも腫れている。
そして綿入りパットと編み包帯で顔はぐるぐる巻きだし、口からは血抜きチューブのドレーンが出ている。
どっか事故で顔でもぶつけたとでも思っていることだろう。
テッシュと取って付のゴミ箱みたいなやつが手放せない。
その日の夜も一時間おきに目がさめるといった按配で朝まで寝れたものではなかった。
かなりの慢性的な睡眠不足だ。

2003/3/15(手術後3日目)

今日は土曜日。
昼間にあまりの眠さでその眠さが強引に私を寝せてくれるが、あまりずっと寝ているとうっ血状態になるし、少しは動いた方が回復にも早いし、夜も眠れるとのアドバイスを受け、昼間は眠くても、頑張って歩くようにし、なるべく起きていた。

私の先生は土日は休みで月曜日は他のところで手術があるとのことで毎日診てくれることがしばらくお預けになり、ちょっと寂しくも、不安でもあった。
もちろん、先生は一人必ず待機しているから心配はないが。
上京した母も、なれない電車を乗りついで、毎日看病に来てくれる。
決していつ時も弱音をはかない母だが、疲れで私のベットの傍でうとうととしていた。
まだ肌寒かったので、私の布団をかけてあげた。
そうこうしていると、初めてのお見舞い。
こんなにも早く人に見せると思っていなかったのでちょっと戸惑ったが、嬉しかった。
私のあまりの変貌振りにびっくりしていたようだ。
でも、私はほとんどしゃべれずひたすらたれてくるよだれと戦っていた。

このころになると、少し体のだるさから開放されて、歩けるようになっていた。
そして、初めて口からものを食すようになった。
物といっても口は開かないに等しい。
ドロドロに溶かしたアイスクリームをほんの少しの隙間からスプーンで流し込むといった感じである。
でも、冷たいアイスはおいしかった。
唯一点滴三昧の日々で食べられたものだった。
いや、たらしこめたものだったと言うのが適切だろう。
先生はアイスはカロリーも高いし、栄養もあるから、日に何個たべてもいいよと言っていた。
今日は外来の処置でドレーン(口の中にささっている血抜きチューブ)を抜いた。
少し痛かったが、これがないと口の中が少しすっきりした。
そして、その夜から少し眠れるようになっていた。
といっても2時間ごとのペースだが。
寝て、起きての繰り返し。

2003/3/16(手術後4日目)

顔の腫れに変化なし。
すこーしはひいたかなと思うがやはり変化なし。
いつも見ていたHPで経験者の方が4日目ともなれば平気!と書いてあったが、私はそこまでは言い切れなかった。
今日はおじ、おば、祖父がお見舞いに来てくれた。
やはり私の顔をみてびっくりしていた。
体のだるさはなくなり、階下まで見送りついでに降りていくことも苦痛でなくなった。
明日、午前中で母は福岡へ帰るという。
すっかり甘えん坊になっていた私は寂しさが…。
でも、この期に母にすっかりお世話になり、私も将来母のように強くなりたいと心底思った。
今日の外来では圧帯の綿とネット包帯が取れた。
これでまた少し人間らしく?なった。

2003/3/17(手術後5日目)

今日の午後の便で帰ると言った母は早めに病室に来てくれた。
昨日と全く顔の変化無し…。
今日はシャワーと髪の毛を洗う許可がおり、点滴を一時止めてシャワーをすることに、髪の毛は母が洗ってくれた。
しばらくぶりだったためによく髪が抜けたらしい。
病院の洗面といっても美容室のようなかんじにはいかず、まだ首を後ろにもたげるのが辛く、洗ってもらうときもすごく大変な体勢だった。
シャワーも右手が点滴の針がささった状態で途中で止めてラップでカバーしているので
なかなか自由が利かずさっとシャワーを浴びる程度だった。
でも、すごくすっきりした。
その昼からペースト食という食事が出されるようになった。
今夜中に点滴もとれる。
母は昼頃帰っていった。

これから一人の病棟生活が始まる。
頑張らねば。
ペースト食は想像よりもどろっとしたものだった。
ペーストになる前はいったいなんだったのかと想像もつかないほどどろどろするものだった。
大きな大きなスプーンがついていたが、おっかなびっくり口に入れてみた。
もちろん、口の周りはだらだらとペースト食が垂れてきて大変だが、頑張って食べないと点滴から開放されない。
やはり点滴は不自由だ。
もっとも鼻チューブよりは数百場合楽だが。
夜10時に寝て、夜中に点滴が終わる処置で目が覚め、その後、朝までぐっすり寝た。
術後やっと寝れた気がする。

2003/3/18(手術後6日目)

まず起きてする日課は鏡チェックだ。
今日もぷっくり腫れた上唇とほっぺたは変わらない。
やはり前の私と比べたら別人だ…。
朝食を頑張って食べて過ごす。
今日はお母さんが来ない。
暇だ…。寂しい。
今朝、先生が診にきてくれた。
カーテンの横から覗いてくれる姿がうれしかった。
しっかりと触診しながら診てくれる。ありがたい。
「土日、月、僕がいないときは○○先生が見てくれるけど、夜に何かあったら飛んでくるからね!」と言ってくれたときは本当に嬉しかったなぁ。
さてさて外来だ。
今日はほっぺたについていたバンドエイドをはずし、抜糸をした。
顔に傷が残ると言っても、にきび跡だらけの私の顔にはあまり影響ない。
ほとんど分からない。
しばらく日焼けをしないように小さなテープをはっておくように言われた。
抜糸はほとんど痛くなかった。
なんせ一針だから。
二人の先生がかりで傷をほじくられ??上唇をめくり上げられたときは涙が出そうになったが、辛抱辛抱。
私も随分と我慢強くなったものだ。
二人とも真剣に傷を見てくれる。

その足で外の仮説店舗の売店に買出しに行った。
見回しても私が今食べられそうなものは…な・い…。
昨日飲んでおいしかったカルピス系の飲み物とアイスを買って部屋に戻る。
部屋で日記を書いたり、はがきを書いたりいろんなことをしているうちにお昼に。
今日、一番嫌だったことは同室の人の嫌がらせ。
でも気にするなとなだめられ気にしないことにする。
とは言いつつも、一日中気になってしまうのだが。
TVを見て、午後ぼーっとして過ごしているとまた先生が診に来てくれた。
こんな気遣いが医療のサービスなのではないかと私は思った。
そんなサービスが自然にできる人がもっとも医療従事者としてふさわしいと思う。
もちろん、技術も大事だが。
いつも聞かれたり、答えたりする内容は代わり映えがいないが、安心感を持たせてくれる。
首から下が元気だとは言え、やはりあまり体力がない。
顔面、口周りがぼーっとしているせいもあろう。
明日は、術後一週間。
少しはよくなってくれますように。

2003/3/19(手術後7日目)

術後、一週間が経った。
午前中はぼーっとしていて
口腔外科での痛い痛い外来処置が済むと昼食といった具合だ。
昨日はようやくよく寝れた。
夜、することもないし、寝てしまうとつらいので、目をつぶってしまうと夜になる。
今日も先生が診にきてくれた。
私の担当の先生たちはこの病院での評判もいいようだ。
ここの病院は小さいが、評判もよく、この病院と先生を選択してよかったと思う。
上唇のぷっくり具合も昨日よりはいい。
ほっぺたの傷も濡れてもいいとのことで明日からは顔をおもいっきり水で洗ってすっきりしよう!

それにしても隣の人の嫌がらせにはうんざり。
年寄り好きの私だが、ここまで気分を悪くすることはあまりない。
病気の年寄りとはこういうもの??
午後、TVを見たり、考え事をしていた。
下の売店に行こうとしたところ、おばが見舞いに来てくれて、ばったり遭遇。
1時間強ほどいろんなことを話して帰っていった。
着替えを持って帰ってもらって助かる。
まだ、笑うと、上唇の裏が痛い。
術後一週間にして口があいたままになっていることに嫌気が…。
ブルーだ。
上顎を前に出した分、それを覆うための唇がたりないのではないかといった安易な発想が浮かんで、不安にかられていた。

昼食をあまりたべなかったために空腹。
アイスを食べるとまでいかないので、ジュースを飲んで我慢。
骨折させた骨が固まるまで6週間かかるらしい。
ながーーーーーーーーーい。毎日、にらめっこする鏡と手帳のカレンダー。
一喜一憂だ。
生命保険の書類等の関係もあり、退院後もしばらくここに通院することになりそうだ。
今日はなんとはなく疲れてしまって、相変わらず空腹感があるし、早く寝ることにする。

そうそう、私の手術名は下顎枝矢状分割術、Le Fort T型骨切術。だそうな。
保険会社の申告のために看護婦さんに教えてもらった。

2003/3/20(手術後8日目)

今日は晴天なり。しかし、強風。隙間風が寒い。
早朝に採血が行われた。
ぼーっとして覚えてないが(なんせ、朝の5時なので)今回の手術のお陰で注射も採血もへっちゃらになった。
昔は注射だけで貧血を起こしていたほど、恐がりだったのに。
それにしても自己血を1200ccも採ったのに、あんなに大きい針を刺して頑張ったのに、無駄だった。
私の場合、輸血はもとより、自己血も必要なかった。
上下だったのに、移動量も大きかったのに必要なかった。
もちろん、すばらしいことだ。
先生の技術もあるだろう。
そして私も頑張った(笑)
 
朝食後、お風呂に入る。
髪の毛が抜ける抜ける。
病気かと思ったほど抜けた。
5回くらいシャンプーした。
家のお風呂が一番いいが、今回は体を洗えた。
すっきりとして外来へ。
両先生は私の上唇の裏の傷跡をみて何か言っていたが、よく聞こえず…。
土曜日に退院する意思をつげたが、OKだとのこと。
さすがに病院にずっといるのは飽きるし、精神的にもおちつかない。
そうするうちにお昼になった。
イラク攻撃もとうとう始まった。
どうなるのだろう。
戦火を浴びて負傷する人が地球のどこかにいるとすれば、人工的に骨を割り、正しい噛み合せにしようとする手術を受けて寝ている人間もいる。
なんとも言えない気分でベッドからニュースを眺めていた。

昼食後、眠ることにした。
起きていても本を読んだり、勉強をする気にもなれない。
よく、入院時に勉強したりする人もいるが、私はとてもそんな気分になれなかった。
向上心がないと言ってしまえばそれまでだが、とても体力がないのだ。
お風呂に入ったため体力が消耗したのであろう。
すぐに寝てしまった。
4時ごろ起きて、下の売店で水等を買った。
この間買ってあったハーゲンダッツのアイスを食べた。
これからしばらく乳製品過剰摂取になりそうだ。
食べたいものはたくさんあるが、そこまでパニックにならない。
矯正でずいぶんと食べるものの制限をしてきたため、あまりつらいこともなかった。
でも、肌が乾燥してかさかさになる。
油分不足だろう。

今日はすこーし上唇がまし。
ほんのほんの少しだが。
でも、まだ口が閉じられない。
顔はまだまだ腫れている。
焦る…。
まだなんたって術後8日だ。
顎が出ていないのは嬉しいが、そこまでの感激というわけでもない?
今まで顎、顎って気にしすぎていたのかな…。
でも、やっぱりやってよかったな。
辛いのはここ2,3ヶ月のはず。
頑張ろう!辛抱辛抱。

2003/3/21(手術後9日目)

今日は春分の日。
風も弱そうだし、気温も高くなってきているようだ。
外来治療も終わった。
顔の腫れ、上唇の腫れ、しびれは変化なし。
先生曰く、私の場合、目の下がほとんど腫れなかったため余計に、上唇の腫れが目立つらしい??!!
でも、目立つとはいえ、口が開いたままなのは、嫌!!
同室のおばあさんが退院していった。
あまり気分のいい隣人ではなかったので安心した。

というかやっぱり病院っていういものじゃないね。
あ〜お腹がすく。
食事までの時間にあと3時間足らず。
じっとしていてこの感じだから、これから退院して動くようになったらどうなることやら…。
一日中何をするわけでもない。
ただ、ぼーとしている。
トイレにすごく近くなるが、あまり行きたくない。
外来はいいのだが、入院病棟があまり好きではなくなった。
もちろん、入院が好きな人などいるわけがないが、気が滅入るのだ。
それは元気になった証拠でもあろう。
でも、明日で退院。
入院費がどのくらいかかるのかちょっと心配だけど、短期入院でほっとした。
気になるのは上唇。
本当に閉じるの???
そして少し顎も痛む。
今日一晩眠れば明日は退院。

2003/3/22(手術後10日)

本日晴れて退院!!
さすが短期入院を謳っている病院だけあって、この症例での入院期間としては異例だろう。
でも、もう病院はいいよ…。
前中、最後の外来処置を受け、退院の準備をした。

パジャマから着替え、久しぶりの洋服だ。
入院のときに着てきたパンツが少しだぶだぶとしていて、余裕になっている。
ウエストはもちろんのこと嬉しいことに太ももの周りも。
体重が5キロほど落ちた。
中学生くらいのときの体重だ。
これからまたしばらく外来で通院することが決まり、10日間の入院が終わった。
まだちょっと歩くとふらっとするというか、あきらかに足の筋力、体力がおちている。
これからはリハビリだ。

思えば物心ついたころから受け口だった。
小さいとき、イジメにもあった。
悲しい思いもした。
普通の歯並びにあこがれていた。
親は私のために、当時、田舎ではめずらしい、矯正歯科に通わせてくれた。
あまりに早期治療だったためか?
小学校1,2年生のときに、4本も抜糸をして気を失ったり、矯正装置をつけて慣れなくて給食が食べられない思いをした。
チンキャップという装置を夜中につけて寝るときもあった。
なかなか子供の私にはつけることが難しく、その他にも矯正ではいろんなことで泣いてきた。
中学生になってその矯正も中途半端で終わってしまった。
膨大なお金を費やしてもらったが…。
高校生になり、もう一度、矯正歯科の門をたたいた。
診断結果は、外科手術併用の矯正。
でも、保険も利かず、費用は100万円単位になる。
ぞっとした。
注射すらできない当時の私には全く手の届かないことになった。
でも、そのとき先生が言っていたのが思い出される。
いい大学に入って、時間をみつけ、そして手術しなさい。と・・・・。
時が流れ、本人、家族ともに喜ぶ大学に入った。
でも、外科矯正とまでは思いもよらなかった。
上京して、私立に通ってお金をさんざん使わせて、さらに手術・・・・。
絶対無理。
でも、大学3年になって、インターネットが普及した時代になった。
ずっとこころのどこかにひっかかっていた受け口。外科手術。
たまたま見つけた矯正歯科に行ってみる事にした。
やはり結果は外科手術。
でも、数年前に聞いた話とは違い、医学、口腔外科学、矯正学も随分と進歩していた。
そして、矯正と切っても切れない費用のことも。
保険が適用された。
私の中に、決意が生まれた。
保険適用ならば自分で、稼いだお金で手術、矯正ができるかもしれない。
決断したら早かった。
上左右4番の抜歯(これもつらかったが、絶えた。丈夫な歯を抜くことの痛みは結構なものだ)そして、術前矯正。
矯正のつらさは今回は割愛するが、それはそれで苦労したし、痛みに耐えた。
今も。
そんなこんなでこぎつけた今回の手術だ。
私も23歳になっている。
就職して1年がたった。
今回の手術、矯正にあたっては、自分で全部まかなった。
もちろん自分で決めたことだから。
ただ、それだけが偉いことでもなんでもないが、そうやって自分を叱咤して前に進めなければ絶対にこんな大掛かりな手術、矯正はできなかったと今でも思う。
夢にまで見た正常な噛み合わせ(まだ、完璧ではないが)前歯が前に来て、後ろの歯がその後ろに。
たったそれだけのことが、私にはほんとうに嬉しかった。
もちろん、見た目ものだ。
受け口といったら絶対にマイナスイメージだ。
どんなに目も、鼻もととのってても、やっぱり正常ではないので目立ってしまう。
今でもこの自分の噛み合わせに信じられないが、これからはこの噛み合わせと一生お付き合いしていく。
まだまだリハビリもあり、この噛み合わせを私の一部として受け入れていかねばならない。
お金があったらできたのか、いい医師にめぐりあったからできたのか、治療を我慢したからできたのか、いずれもそれだけでは今回の手術は成功には終わらなかったと思う。
何よりも私自身のしっかりとした意思と、支えてくれた周りの人の力のお陰だと思う。
私はこの歯と顎をみるたびにこのことを思い出し、また、頑張った自分をほめてあげながら、これからのいろんな'辛い'ことにチャレンジしていきたい。